Audibleで一度聴いて内容はある程度把握していたのですが、もう一度本を読もうと思い、文庫本で『コンビニ人間』を読み直しました。デジタルも悪くないけど、記憶からあっという間に消えてしまうので、最近は紙媒体にマーカーとシャーペンで書き込みながら、読書しています。
改めて活字で読んでみると、主人公の古倉恵子の独特な表現と思考回路に、思いっきり頭を殴られるような感覚を覚えました。
オーディブルだと、読み手の声に少し引っ張られるところがありましたが、活字で読むと主人公の異常さがより鮮明に浮き出た気がして面白かったです。
また主人公が気持ち悪いとの声もあったようですが、私にはわかりませんでしたし、どっちかというと白羽さんの思考回路のほうが気持ち悪かったですね。
また主人公をアスペルガーとか発達障害とかでひとくくりにすると、なんだかおもしろくないので、そのあたりの語句を調べたり、使ったりしないようにしてこの記事を書きました。
今回は、この物語に対して私が持った主人公・古倉恵子の思考回路に対する違和感と少しゾッとするような共感、THE・クソヤローの名にふさわしい男・白羽さんについて書いていきたいと思います。
違和感と奇妙な共感
最初の8ページで感じる「論理的な違和感」
物語の序盤、主人公がコンビニの食べ物を描写するシーンで
機械が作った清潔な食べ物 引用 コンビニ人間 より
という表現が出てきます。
強い違和感・・・ありそうでない表現。
機械が作っているから清潔、
というのはわかりそうな気もするけど、やっぱり何かがおかしい。
アンドロイドとかサイボーグが食べる「人工的な機械食」みたいなものならきちんと通る意味になりそうだけど、コンビニ弁当にこれはちょっと怖い。
逆に、普通なら食べ物に関しては特に保存料や合成着色料など無菌だけど、どこか汚い(というより体に悪い、毒のような感じ)と言うような感覚を持つのが一般的ではないかな、と思います。
出だしから、淡々とした文体なのに強烈な違和感を頭に叩き込んでくるこの感じ。嫌じゃないけど、コンビニのようなどこにでもある風景が、人によってこんなに違って見えるという事実を改めて認識させられました。
小鳥のエピソード
小さな子が発見した死んだ小鳥。それにお墓を作って埋めてあげるという一般的な行動。これはなんとなくわかりそうなものだけど、古倉さんはわからない。
小鳥が死んだから、草花をちぎって殺して、死体を死体の上に置く、この光景こそ頭をおかしいように見えたとあります。
見かたによってはその通り!確かに言わんとしていることがわかります。
私も小さいころに同じ体験をしましたが、鳥が死んでいてそんなに悲しくは感じませんでした。
しかし、そういう風に悲しんで弔うのが正しいと教えられてきて、悲しいと思わないといけないのか、と思った記憶がよみがえります。
無言の圧力というものがあったのだなぁと。
私は古倉恵子寄りなのか?という恐怖
もし「なぜ死んだ鳥を食べちゃいけないの?」と聞かれたら、私はどう答えるだろう?
子供の教育上「かわいそうだから」と答えるのが正解なんだろうなとは思います。
しかし、私の口から真っ先に出そうになるのは「汚いからだよ。血抜きもしてないし」という言葉。
もし逆に、子供から「小鳥さんがかわいそうだね」と言われても、
「まあ、死ぬときは死ぬから、そんなもんだよ」と思わず言ってしまいそうになる自分がいます。
私は昔から「見た目は優しそう」と言われるが、付き合いが深くなると「どこか冷たい」と評されることが多くなります。
INTP(論理学者)という性格的な傾向もあるのかもしれないが、感情より合理性が先行してしまうことがよくあります。
なので、飼ってもいない小鳥が死んでいたところで、本当は悲しくはない。
だけど、悲しいと思わないといけないし、悲しくない自分は薄情なのだ、と思ったりしていました。
しかし、少し共感を持ちながらも、
「さすがに自分は古倉さんほど狂ってはいないはず・・・」
古倉さんに共感しながらも、それを認めたくない自分がいることに気が付きました。
古倉さんの思考を考えてみる
極端な「理論派」が陥るバグ
なぜ古倉さんは、あのような思考になるのだろうか。
私が読んで気が付いた彼女の特徴は
・感情が薄いがイライラしたり、焦ったりすることもある
・極端に理性的で論理的
感情や本能を制御して客観的な判断を下すのが、人間の理性というなら、古倉さんは理性的なので究極的な人間像に近い人物になってしまわないか?
・・・おかしい、何かが抜けている・・・そうか!
論理の破綻に気がつけない
彼女の思考は「論理構成が非常に単純」なんだ。
彼女の頭の中は、「AはBである」「AはCでもある」だから「B=Cである」というような、単純化された三段論法で処理されています。
例えば、「命は大切で、みんな平等である」という世間の『建前』がありますよね。
古倉さんはこれを文字通り100%真に受けます。
そうすると命が平等なら、人間の赤ん坊(甥っ子)も、野良猫の赤ちゃんも、等価になります。
そして他の側面(価値観)から、甥っ子と野良猫の赤ちゃんを見ることができない。
そうすることで、論理的なのに論理が破綻している現象が起きるのだと思います。
重要度のグラデーション
そこに物事の重要度のグラデーションがありません。
なぜ重要度のグラデーションがないのか、とさらに突っ込んで考えてみると、それは抽象化することができないからではないかと思います。
普通の人間ならば、妹の赤ん坊を単なる有機体としてではなく、「家族」「血縁」「人間の尊厳」「妹の宝物」といった「目に見えない抽象的な概念」でコーティングしてみています。
無意識のうちのこれらの抽象概念をタグ付けして、「甥っ子のほうが圧倒的に大切だ」、と判断しています。
古倉さんは建前でもなんでも、言われたことをそのまま受け取るからこそ、常にノイズだらけの現実世界に対処できず、苦しんできたのだろうと思います。
逆に単純な論法だからこそ、破壊力はすごい。
どちらかというと白羽さんが性犯罪者寸前の人間だと思っていたので・・・自分が加害者かもしれないとは考えない思考回路んなんだなぁ、と思って眺めた。 コンビニ人間 90ページより抜粋
と冷静に分析していました。
そこの分析はきっちり真芯でとらえている気がして、おかしくて笑ってしまった。
そこに嫌悪感などもないから余計に白羽さんのヤバさが浮き彫りになるという、のほほんとしながら、めちゃくちゃ攻撃力の高い武器で殴ってくる感じ。しかし、それが良い。
白羽という「自己矛盾」と、村社会の生存者バイアス
作中に登場する白羽さんは、とんでもないレベルの自己矛盾を抱えた存在に思えました。
「自分は村社会的な同調圧力の被害者だ」
と嘆きながら、主人公に対する態度は
「マウントをとる社会の男」
そのものです。
しかし、その自身の矛盾に気づけないからなのか、真正のクズ男だからなのかわからないが、とにかく社会から逃げながら、他人を攻撃しまくる。
しかし驚くべきことに、白羽さんは「あちら側(普通の世界)」の素質をしっかりと持っています。
妹に対して「私が彼女を怒らせてしまったんです」と、その場を丸く収めるための『嘘(建前)』が言えるのです。
これは古倉さんには絶対にできない芸当ですよね。むしろそんなとっさの判断ができるんだったら、もうちょっと頑張ればどうにかなっただろう!と注意したくなりました。
女は男に見初められるもの
この言葉がこの男から出てくる事実だけでゾワゾワして鳥肌が立ってきます。
そもそも、それこそ縄文時代の論法じゃないんか?
どう頑張ってもモテそうにないこの男のこの自信はいったいどこから来ているのか?
おそらく客観性のパラメーターをほぼ0にして主観だけでものを見たらこうなるんでしょう。
それにしても、古倉さんよりレア度が低く、その辺にいそうな気がするのが余計に怖いですね。
拗らせ方がひどすぎて、逆に面白いレベルです。
白羽さんと古倉さんの対比による問いかけ
「純度100%の論理と合理」で動く古倉と、「社会の同調圧力と肥大化した自意識」に塗れた白羽。
この極端に対照的な二人を同じ舞台に配置することで、観察力があり、冷静に自分自身を見ているが、論理が単純で、思考が直線的すぎる古倉さん。
一方の白羽さんは、思考は社会に染まっているが、自分自身を客観視できていない。
ある意味対照的なこの二人を登場させることで、改めて
「人間とは何か」
という問いを投げかけてきているように思えてなりませんでした。
彼女の「完全な世界」
抽象化ができない彼女にとって、現実世界はあまりにも複雑で曖昧すぎる。
下手をうつと「異物」として扱われてしまい、排除の対象となってしまう。
だからこそ、彼女には「完璧なマニュアル」を求めたのだと思います。
白羽さんが言っていた「機能不全世界」に対する「完全な世界」とは何かを考えてみると、古倉さんにとって、コンビニエンスストアがそれであったのは間違いないでしょう。
指示通りしていれば、正常な部品としてすべてが満たされる世界。それがコンビニエンスストア。
ちょっと理解しがたいと思いますが、似たような感じのことがあると思います。
恋愛に置き換えると
例えば、初恋の人とずっと添い遂げようとしている人がいるとする。
しかし、その相手が世間一般から見て「著しく評判の悪い人(例えば、定職に就いていない、素行が悪いなど)」だった場合、周りはどう反応するか?
間違いなく、親や友人は口を挟んでくるでしょう。
「もっといい人がいる」「目を覚ませ」「そんな人といたら不幸になるぞ」と。
彼らはそれを純粋な「善意」だと信じて疑わないけど、当人同士の間で完璧な関係性が築けており、本人たちがそれで完全に満たされているのだとすれば、周囲の口出しは、暴力的なまでの「大きなお世話」でしかありません。
実はこれ、古倉さんとコンビニの関係性と全く同じ構造なのではないのでしょうか。
じゃあ、他にこれほど満たされた世界が私自身の中にあるか?と問われれば、正直思いつきません。
グラデーションのない単純な論理と合理の極致にいるような古倉さんは、人間ではなく、コンビニ店員として生きていくことが、この上ない幸せなのかもしれない。
そう考えると奇妙でありながらも、どこか清々しさすら感じさせてくれます。
結論
世界は人の数だけある
昔からよく言われますが、その中でも極端な変わった世界が見れたのではないかと思いました。
よくよく考えると、人の幸せは人によって違うし、思いっきり違っててもいいんだなぁ、と思いました。
なので、古倉さんがコンビニ店員として働くのが無上の幸せなら、それはそれでいいし、私がこうした方が良いというのもおこがましい。
さらに、古倉さんほど極端でなくても、人が見ている世界は自分とは違っていることを頭においておかなければいけないと思いました。
つい、自分や世間が正しい、と思ってしまいがちですが、意外な方向から世界を見ている人がいる。
自分が正しいと思い込めば、どんどんそういう人たちとの距離は開いていく。
そうやってマウントおじさんが出来上がるのかもしれない、そうならないように気を付けようと。
ただ、私はコンビニ人間になりたくないなぁ・・・どっちにしてもなれないだろうけど。
